映画&マンガ 「この世界の片隅に」 感想

 

先日、劇場公開中の映画「この世界の片隅に」を見てきました。

原作は既読。何年か前に「この世界の片隅に」を読んで感動して、こうの史代先生の他の作品も読んだりしたので、 今回の映画化も少し前から楽しみにしていました。
クラウドファンディングで制作資金を募ったり話題になっていましたので)。

先日映画を見に行き、その後再び原作を読み直したので、自分なりに気が付いたこととか、あれこれ感想を書いてみようかなと思います。 

 

色がついてて感動した

 

「色がついてて感動した」というのも、なんか単純な感想ですけど・・・

原作と映画の違いといえば、色がついて動いていることと、音が付いていることですね。 

特にこの映画では、徹底的なロケハン・時代考証が行われていて、監督によるレポートが公開されているのですが、異様なほどのこだわりや情熱を感じて圧倒されますね。
(参照・リンク:1300日の記録[片渕須直]

背景美術が美しく、当時の呉や広島の風景が可能な限り精密に再現され描かれているので、映画を見ていると、主人公の「すず」と一緒に、観客である自分も作品で描かれた当時の世界に入り込んでしまうようなリアリティーがあります。
(今回の映画化は、綿密な取材に基づいた映像のリアリティーの凄さを絶賛する声が多いようです)。


原作者のこうの史代先生は、ほぼすべて黒ペンのみで作品を描く方なので、原作ファンの私としては、原作の世界に色がついて動いているのを見ると、なんかそれだけで感動してしまいます。
(水彩のカラーページもありますが、基本的にスクリーントーンも使わず、ひたすら黒ペンのみで描かれている)。
紙とペンのみであれほど濃密な作品を一人で書き上げる職人的な技術・労力に圧倒されるわけですが・・・

 

f:id:bokunozakkicho:20161126095616j:plain

 自分としては、今回映画を見ていて「色」がついていることで、原作を読んでいて気が付かなかったことに気が付いたりしました。


例えば、主人公「すず」の幼馴染の「水原哲」が、絵を描いてくれたお礼に、すずに「椿の花」をあげるシーンがあるのですが、 映画では、この時の「椿の花」が鮮やかな紅色で、画面の中で非常に目を引く存在になっているので、 

椿の花を贈ることで、哲がすずに自分の想いを伝えた事・鈍感そうなすずも哲の気持ちに気付いたことが、 モノクロで描かれていた原作よりもダイレクトに、分かりやすい表現になっていました。(「波のうさぎ」の場面)。

 

f:id:bokunozakkicho:20161126095949j:plain

 

さらに祖母がすずにくれた嫁入り用の晴れ着の柄(色)が、すずと哲の思い出の花である「椿」だったり、
同じ季節(冬)だったためですが、嫁入りの時すずが髪に椿の花を挿していたり。
(これも映画でカラーになっているので気が付いたのですが、原作はモノクロなので分かりにくい)。

 

f:id:bokunozakkicho:20161126100028j:plain

 

のんびりしてて天真爛漫なイメージのすずですが、幼馴染の哲との思い出の花(「椿の花」)を身にまとって、知らない男の元に嫁に行くとか・・・
なんだか、心の秘密(秘められたエロティシズム)のようなものを感じてしまいましたね。。
(密かに哲のことを想ったまま、知らない男の嫁になったということでしょうかね)。

嫁入りの時着ていた椿の着物は、物語終盤(戦後)になって、闇市で食料と交換する場面で再登場するのですが、
原作を読んだときは、やはりモノクロで描かれているので、それが嫁入りの時着ていた「椿の着物」だとは気が付きませんでした。(よく見ると原作でもちゃんと同じ椿の柄の着物が描かれている)。

この椿の着物を闇市で食料と交換した帰り道、最後の空襲により大破した重巡洋艦「青葉」(水原哲は「青葉」の乗員だった)の前で、 戦死した(?)「水原哲」とすれ違い、
すずが哲に別れを告げるなど、「椿の花」がすずと哲の「選ばなかった道」の象徴のような役割で使われていたのかなと思いました。

着物(服)については、大人になって「白木リン」と再会した時すずが着ていた服(子供の時着ていた着物を仕立て直した)が、子供の頃祖母の家で出会っていた時と同じものだったり、原作でも映画でも、よくよく注意して見なければ気が付かないところまで、細かく考えられて作られていることに感心しました。 

 

 

キービジュアルの謎

 

f:id:bokunozakkicho:20161126100220j:plain

f:id:bokunozakkicho:20161126125631j:plain

 

 上の重巡洋艦「青葉」のポスター(キービジュアル)は、クラウドファンディングで資金を募っていた頃(?)に発表されたもののようですが、作中でさほど登場シーンが多いわけでもないないのに、ポスターにでかでかと「青葉」が描かれているのは、少し不思議な感じがしますね。 

この作品のメインストーリーは知らない家に嫁いできたすずが悪戦苦闘して新しい家になじんだり、夫「周作」と心を通わせて本当の夫婦になっていく姿を描いたストーリーですから、ポスターにするのなら、すずが料理を作ったり家事をしているシーンなどの方がしっくりくる感じがします。

でも原作をよく読んでみると(映画でも同じですが)作中で重巡「青葉」が、実はけっこう重要な意味を持つ存在であることが、後からなんとなく分かってきました。(あえて説明を抑えた描き方になっているようなので注意深く読まないとよく分からない)。

上の2枚のポスターに写っているのは、「重巡青葉」「港と軍艦をスケッチするすず」「水鳥(サギ)」「白いタンポポと黄色いタンポポ」「タンポポの綿毛」などでしょうかね。

タンポポの綿毛」は、自分の意志ではなく風に流されるように実家を出て、知らない家に嫁いできたすずを表しているのかなと思いました。
あと、「白いタンポポ」の群れの中に一輪だけ根を張る「黄色いタンポポ」は、新しい場所で生きていこうとするすずの姿を表しているのかなと思いました。
(私は白いタンポポって知らなかったんですが、関西より西には白と黄色のタンポポがそれぞれ群生している地域があるみたいですね)。

あとこのポスターに描かれている重巡「青葉」は、3度目の大破でボロボロの状態で呉に帰港した時の青葉(19年12月)のようですね。何度負傷しても戦線復帰を繰り返した「青葉」はいつからか「ソロモンの狼」「不死身の重巡」と呼ばれるようになったのだとか。つまり母港である呉と南方の戦場を、渡り鳥である水鳥(サギ)のように何度も行ったり来たりしていたわけですね。

要するに「重巡青葉」=「渡り鳥・水鳥(サギ)」=「水原哲」として描かれているようです。
「青葉」にとって呉は、母港(帰るべき場所)であり、哲にとっても幼馴染のすずが暮らしている呉は帰る場所・命を懸けて守るべき故郷の象徴になっているのかなと思いました。

 

f:id:bokunozakkicho:20161126101155j:plain

▲(中巻:89ページより引用)

f:id:bokunozakkicho:20161126101211j:plain

▲(下巻:63ページより引用)

f:id:bokunozakkicho:20161126101232j:plain

▲(下巻:64ページより引用)

 

リンク:青葉 (重巡洋艦)-ウィキペディア
リンク:呉軍港空襲-ウィキペディア

 

 記録によると「青葉」が最後の時を迎えたのは呉空襲の終わりごろ7月28日とのこと。 

航行能力が低下していたため外洋に出ることなく、浮き砲台として呉湾内で米軍艦載機・爆撃機による空襲に応戦し4度目の大破でついに力尽きたようです。

「水原哲」が最後まで「青葉」に留まっていたのか、作中ではっきり書いてあるわけではないのですが、
下巻の呉空襲のシーン(7月28日7時)で、水鳥(サギ)がすずの前に舞い降りているのが、水原哲がすずに最後の別れを告げに来ているように受け取れるので、おそらく水原哲は、「青葉」で最後まで戦い戦死したのかな、と思いますね。

ちなみに、「白木リン」も作中ではっきり生死が描かれていないのですが、
敵機の機銃掃射の弾丸ですずのカバンが撃ち抜かれた時、中にしまってあった、「水原哲からもらった水鳥の羽」と「白木リンからもらった口紅が」粉々に砕け散る描写がありますので、おそらく空襲のあったこの日(7月28日)哲とリンが死んだ(?)、ということを暗示しているのかなと思いました。(映画では桜の木の上でリンから口紅をもらうシーンはカットされているのですが)。

 

f:id:bokunozakkicho:20161126101723j:plain

 

戦争は負けると気づいていたと多くの人が言う。だから終わった時は「ほっとした」と言う。なのに終戦の日、記録映像では何故みんな泣いているのだろう?

(中略)

つぎに玉音放送での涙について。
終戦で泣くのは、家族や家のみならず、夢を失った悲しみだと思った。夢とはこの時点ではすでに「勝つこと」ではない。「正義を抱いたまま死ぬ事」だ。(「平凡倶楽部:戦争を描くということ」 より引用)

 (上記の文章は原作者こうの史代先生が「平凡倶楽部」というエッセイ集で「この世界の片隅に」について述べている文章からその一部を引用したものです。)

 

「飛び去ってゆく。この国から正義が飛び去ってゆく」
「・・・ああ、暴力で従えとったということか。じゃけえ暴力に屈するいうことかね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなぁ・・・」


原作では玉音放送を聞いた後、すずが一人で泣きながら上記のようにつぶやくシーンがあります。

このすずのセリフは映画版では、かなり改変されていました。
正確な文言を覚えていないのですが、確か生活とか食べ物のことについてのセリフになっていたと思います。
(より等身大の生活者としてのすずの言葉になっているようでした)。

呉空襲の末期、すずの前に舞い降りた水鳥がどこかへ飛び去って行きますが、これはすずにとって水原哲の死であり、その時代を生きていた皆が信じていた「正義」の終わりだった、ということなのかなと思いました。

その時代の正義のために多くの犠牲を払ったというのに、負けて全て無駄になってしまったような虚脱感・・・なんでしょうかね。

 

まとめ

今回の片渕監督による映画版「この世界の片隅に」の完成度の高さはすさまじいものがありました。
一応自分なりに感想を書いてみたのですが、どうも上手くまとめることができず。

何年か前に原作は読んでいて、今回映画版を見て、原作も再読したのですが、「椿の着物」とか「重巡青葉」など部分的なところに興味を引かれて、自分なりに感想を書いてみました。

この作品の大事なところは戦時下という非日常を生きる普通の人々の日常(どのように生きるか)だと思いますので、「青葉」とかについてばかり語るのは、作品の本質からだいぶずれてしまっているのかな・・・という気がします。
(この作品の中で「青葉と水原哲」の存在は重要ではあると思うのですが)。


たまたま今回自分の場合「青葉」とか「水原哲」の存在が気になったのですが、すずと夫周作、白木リンと周作の関係、姪の晴美や義姉の径子など、それぞれのキャラクターにそれぞれの物語があり色々考えてみたくなる(色々な読み方のできる)奥の深い作品だと思います。

映画については、近いうちにもう一度見に行こうかなと思っています。
原作も映画もどちらもすごい作品でした。
ありがとうございました。