マンガ 「僕だけがいない街8巻」(完結) & 全体的な感想
「僕だけがいない街」の8巻読みました。
真犯人の八代先生との決着がどうなるのか期待が高かった分不安もあったのですが、
素晴らしい完結編になっていて感動しました。
特に批判的な意見はなく、大満足の完結編でしたが、
せっかくなので、自分のための情報整理もかねて、作中のよく分からなかった点や「これはこういうことなのかな?」という、自分の勝手な解釈・感想を思いつくまま書いてみようかなと思います。
「八代学」とは何だったのか?
8巻の内容的な中心は八代との対決でしたので、改めて「八代学」とは、この作品においてどのような存在だったのか、考えてみようと思います。
アニメ版の最終話での対決では、すべての元凶であり「悪の象徴」のような八代が意外に脆い(弱い?)というか、
しでかした悪事の重大さに比べて、「ヘタレている」ように見えて、盛り上がりに欠けるというか、
正直失望感がありました(小物っぽくなっていましたね)。
悟に精神的に依存しているように見えて、「寂しがり屋なのか?」と思ってしまいました。
それが8巻では、最後まで「悪役らしさ」を失わない描かれ方になっていたので、「納得できる決着」になっていたと思います。
しかし、八代がしでかしたことと言えば、弱くて無防備な存在である「子供(女の子)」を標的にした、大量快楽殺人ですからね・・・。 最もやってはいけないことをやってしまった「最低の犯罪者」なんですよね。
悪役として強ければ強いほど(=「悪役」としてかっこよければかっこいいほど)、作品としては最終決戦として盛り上がるわけですが・・・
「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくる悪役の場合は、強くてかっこよくて(独自の犯罪哲学を語ったりする)、魅力的ですけど、正義の主人公にボコボコにされて這いつくばったり、必死こいて足掻いたり、最後は無様に死んで行ったりしますね。
ジョジョに出てくる悪役の場合は、かっこよさと無様さのバランスが良くて、より悪役の魅力が増している感じがします。
アンチヒーローの悪役が「かっこよく」見える、あるいは「人気が出る」というのは、マンガや映画ではよくありますよね。
悪役の魅力としては、社会の常識を破壊するような「アンチテーゼの体現者」としての魅力なんでしょうかね。
「俺たちにできないことを平然とやってのける そこにシビれる! あこがれるゥ!」みたいな?
誰でも多かれ少なかれ社会や自分の人生に不満があるものですから、良くも悪くも常識を破壊する突き抜けた存在に惹かれたり、退屈な正義より、魅力的な悪が輝いて見えることもあるんでしょうね。
アンチヒーローの悪役に魅力を感じて惹かれるところが自分にも確かにあるなあ・・・、と思いますね(自分は正義の味方も好きですけど)。
しかし、「八代学」の場合はどうなんでしょうか・・・。
アニメ版が物足りないと感じていたので、最後まで「らしさを失わない悪役」「達観した悪役」として描かれていることに、最初は、「面白かった!」と手放しで満足していたのですが、・・・
よく考えてみると、八代には、しでかしたことの罪の重さにふさわしい最後を(罰を)与えてもらいたかった・・・かな、という気がしてきました。(まあ捕まって死刑判決を受けていましたけど)。
いっそ「オラオララッシュ」で粉々に粉砕されるぐらいだとすっきりするんですけどね(色々台無しか)。
あと、ついでにいうと、悟は八代に父親像を重ねて見ていたので、最後に八代と対決して、八代の存在を乗り越えることは、いわゆる「父殺し」のメタファーになっているように思いました。
八代は倒さなくてはならない凶悪犯であると同時に、乗り越えていかなくてはならない(悪い)父親でもあるのですが、「父殺し」というよりは、お互い理解しあう・和解(赦し?)のような、決着の付け方になっていました。(そのほうが「大人」なのかもしれませんけど)。
それが良いのか悪いのか、自分にはよく分からないのですが、少しもやもやが残る点ではあるな、と思いました。
(このようなサイコパスに自分の犯罪を反省させるのは無理なのかもしれませんが・・・)。
「八代学とは何だったのか?」ということですが、
途中までは、犯人の正体が見えない不安・恐怖が、ミステリーを盛り上げ底知れない恐ろしさ、不気味さを感じて、非常に良かったと思います。
正体が明かされてからは、また別の面白さがあったので批判するつもりはないのですが、
・・・正体がわからない時の緊迫感は失われてしまった感じはしました。(仕方がないことですけどね)。
正体が見えなかった時の真犯人の不気味さは、大人や社会に守られなければ生きていけない子供(弱く無防備な存在)に降りかかる「理不尽な運命」そのものであるように感じました。
世の中理不尽なことなんていくらでもありますけどね。特に幼い子供が理不尽な暴力で殺されたり、虐待された報道とか見ると、何とも言えないやりきれない気持ちになります。
まともな人間が「子供を守りたい」と思うのは、母性・父性のような本能レベルの欲求なんでしょうか。
また誰しも、かつては(弱く無防備な)子供だったわけですから、「子供に対する理不尽な暴力」に対して、心をかき乱されるような怒り・不快感を掻き立てられやすいんでしょうね(暴力に脅かされた経験・トラウマがある人ならなおさら)。
ただ、途中から犯人の顔が見えてしまうと(犯人の内面が詳しく語られだすと)、「子供に降りかかる理不尽な運命」というような抽象性がなくなり、「全部こいつが悪いんじゃねえか!」という、少し底がしれたような感じはありましたね。
「八代学とは何だったのか?」といっても、正直よく分かりませんね。現実の凶悪事件の犯人についても同じですが、こういう「モンスター」をどう理解したらいいものか・・・、どうしても後味の悪さが残りますね。
八代の「蜘蛛の糸」とは何なのか?
悟の「リバイバル」も謎が多いですが、八代の「蜘蛛の糸」についてもあまり説明がないのでよく分からないままですね。
原作を読むと、明確に蜘蛛の糸が見えている描写があるのは以下の3人だけなんですよね。
・八代の兄
・八代の婚約者
・八代本人
アニメ版では、八代は悟の頭上にも「蜘蛛の糸」が見えると言っているのですが(アニメ11話)、
原作8巻ではアニメとは違っていて、
「小5の頃も今も」八代は悟には蜘蛛の糸が見えないと明言していました。
八代にとって「蜘蛛の糸が見える人間」とはどのような人間なのか?
普通に考えると、「蜘蛛の糸が見える人間」=「カンダタ」ということなんでしょうかね。
「カンダタ」である条件としては以下のようなものでしょうか。
①「地獄」(のような状況・環境)にいる
②その「地獄」から逃れたいと強い願い・欲求を持っている
③自分が「地獄」から抜け出すために他者を蹴落とす(切り捨て)ようとしている
(*多分、悟は「正義の味方になりたい人」なので、③が当てはまらないんでしょうかね)
八代の兄については、説明不要というかルックスも言動も、まさに「カンダタ」そのものという感じですね。
弟の八代学を見張りにして女の子にイタズラをしていたら、勢いで女の子を殺してしまうのですが、
その「やばい状況」ですぐさま弟に罪を擦り付けようとします(罪から逃れるため冤罪を利用しようとする)。
自分が女の子を殺したのに、「なんてことしてくれたんだ」と、いきなり被害者ぶって弟を殴り罪を擦り付けようとする外道でした。
「ヒマワリの種」が無くなっている、というのが何のことか分かりづらかったんですが、これは弟に罪を擦り付けるために女の子の遺体のどこかにヒマワリの種を仕込んだ? ということだったんでしょうかね。 (顔に似合わず機転が利く)。
「女の子を殺してしまった」という「やばい状況(地獄)」から逃れるため、弟を蹴落とそうとしているので、この八代兄はまさに「カンダタ」そのものですね。
悪知恵の働く八代兄でしたが、弟の方が上を行っていたので、自殺に偽装された上で弟に殺害されました(八代の最初の殺人?)
八代は兄が起こした殺人の犯人に仕立て上げられそうになりましたが、
その状況から逃れるために、逆に兄を蹴落として(殺害して)いるので、八代自身もまた「カンダタ」だったわけですね。
八代の婚約者も「カンダタ」だったのか? ということですが、
八代のことをかなり疑っていたようなので、
自分の婚約者が連続殺人犯であるという、状況(地獄)から逃れるために八代を告発するつもりだった? ということでしょうかね。
同じ「カンダタ」と言っても、八代や八代兄のような犯罪者じゃないんだから、カンダタ扱いするのは気の毒な感じがしますね。
自分の犯行がバレていると察知した八代は、すかさず婚約者を投身自殺に見せかけて殺害しました。
自分の犯行が明らかになるのを防ぐために、婚約者を蹴落としているので、ここでも八代は「カンダタ」だったというわけですね。 (それ以外にも邪魔者は次々蹴落としてきたんでしょうかね)。
「雛月加代」の場合はどうだったのか?
アニメ版では、雛月の頭上にも「蜘蛛の糸」が見えていた描写がありました(アニメ11話)。
しかし原作には、雛月の頭上に「蜘蛛の糸」が見えている描写は無いみたいですね・・・。
まあ多分、描写は無いけど、八代には雛月の頭上にも「蜘蛛の糸」が見えていたんだろうな、と思いますね。
悟と雛月が最初に話すシーンでは、雛月は「母親ってそんなに大切なもの?」と、悟に聞いていますが、
そのあと、「あたしの為に人が殺せる?」と言います。
この時の「人を殺せる?」という雛月のセリフはインパクトが大きかっただけに、どういう意味なのか気になっていました。
雛月は我慢強くて、わりと控えめで大人しい性格のようだし、この時のセリフだけ少し浮いているようで気になりました。
しかし、雛月加代を「カンダタ」になぞらえて考えてみると、
母親からの虐待という「地獄」のような状況から逃れたいと強く願っていて、
できるものなら母親を蹴落として(切り捨てて)、地獄から逃れたいと思っていた・・・、ということなのかな? と思いました。
「ジョーダンに決まってるべさ」と言っていた加代ちゃんでしたが・・・
わりと半分本気(マジ)で母親を殺したいと思っていたのかもしれませんね。
(結局、保護されて母親と別れましたが、母親を見ようともしていなかったですね)
そんな中、悟だけは八代の目にも「蜘蛛の糸」が見えていなかった・・・。
これはどうなんでしょうかね。悟ってそんなに特殊な人間だったんでしょうか?
確かに正義感の強い人間ではあるのですが、そこまでの「黄金の魂」的人間だったとは・・・。
悟がこの作品の主人公であるための「ヒーローの条件」は、「絶対に人を見捨てようとしない」ところにあるのかな? と思いました。
そんな悟だからこそ(特殊な人間だからこそ?)「リバイバル」という超能力に目覚めた・・・? ということなんでしょうかね。
悟の「リバイバル」とは何なのか?
「リバイバル」がなぜ起きるようになったのか? 作中で説明がないので、「結局何だったんだ?」という謎が残ったままですね。
まあ、何でもすべて説明されてしまっても、読者が考えたり想像力を働かせたりする余地が無くなるので、「説明されない」ことが必ずしも悪いこととは思いませんが・・・、やはりちょっとしたモヤモヤ感は残りますね。
せっかくなので、自分なりに「こういうことなのかな?」と思った事・考えた事を書いてみようかなと思います(見当はずれな解釈かもしれませんが)。
どうやら「リバイバル」が起きるようになったのは、小学生の頃の事件が起きた後からのようで、
「リバイバル」が起きなくなったのは、過去に戻って事件を防ぐ事に成功した後からのようです。
事件が起きる前と後で、悟にどんな変化があったのか?
クラスメートが相次いで二人も殺され、
優しい近所のお兄さんだったユウキさんが犯人として捕まってしまい、
特にヒロミはよく一緒に遊んでいた友達だったので、
「自分なら事件を防げたはずなのに!」と、自分を強く責めるようになった。
(=「胸にポッカリ穴が空いた」状態になってしまった)。
「胸に穴が空いた」状態の悟に、非常に大きな・深い影響を与えたのが、小学校の卒業式の時、担任だった八代先生が語っていた、
「足りない何かを埋めていくのが人生だと僕は思う」という言葉。
八代にとっては、「心の穴を埋める」行為(代償行為)は、犯罪(殺人と冤罪)でした。
悟にとって、「心の穴を埋める行為」は何だったのか?
助けられたハズだったのに助けられなかった、という自責の念が心に穴ができた原因だったので、
「人を見捨てたくない」「誰かを助けたい」と強く思うようになったんでしょうかね。
悟は幼いころ父親に捨てられた経験(トラウマ)があったので、「見捨てる」ことや、「見捨てられる」ことに、元々普通よりこだわりがあったかもしれないですね。
そして父親不在の反動からか、「父性を感じさせるヒーロー(ワンダーガイ)」に非常に強くあこがれていました。
男の子がヒーローにあこがれるのは、よくあることですが、悟の場合はヒーローへのあこがれが人並み外れたものだったみたいですね。(あこがれの気持ちが人並み以上に強い人ってわりといるのでおかしなことではないと思いますが)。
父親に捨てられたトラウマがあり、ヒーローに強烈にあこがれていた悟でしたが、「自分なら防ぐことができたハズ」の事件を防ぐことができず、心にぽっかり穴が空いてしまった。
その代償を求める、「心の穴を埋めたい」という強い無意識的な欲求(八代の殺人衝動に匹敵するぐらいのヒーロー願望?)が、超能力(=「リバイバル」能力)発現のきっかけになったのではないか? と、考えてみました。
本当の所は作者のみぞ知る、なのでよく分かりませんが・・・、あーじゃないかこーじゃないか、と考えるのも楽しいし、それぞれ受け手が自由に考えてみればいいのではないかと思いますね。
自分の場合は、作中で説明が無くても「投げっぱなし」とか「ご都合主義」とは思わなかったです。
悟の「リバイバル」や八代の「蜘蛛の糸」は、ジョジョの奇妙な冒険のスタンド能力みたいなもの? なのかなと勝手に思っていました。
その人の精神力とか性格で色んな能力が発現するとか、ジョジョのスタンド登場以降、マンガではわりとよくありますよね。
(作者が「ジョジョ」のアシスタントだったと聞いて、そういう印象を受けてしまったのかもしれませんが)。
「ウソツキ」「ニセモノ同士」「似た者同士」
雛月は悟に対して「ウソツキ」「ニセモノ同士」と言っていました。
悟は雛月に対して「同族嫌悪」(嫌いだったけど逆に惹かれるところもあった)、とケンヤに話していました。
8巻の最終決着では、八代は悟に対して世間の尺度から外れた「似た者同士」と言っていました。
「ウソツキ」「ニセモノ同士」「似た者同士」という意味で、
悟、雛月、八代はいくつか共通点があるのかな、と思いました。
子供時代の3人に共通しているのは、対人関係・他人との距離の取り方に問題がある、ということでしょうかね。
悟は幼い頃に父親に捨てられたことが、心の傷になっていたようですね。
雛月の場合は、毒母に日常的に虐待を受けていましたし、
八代の場合は粗暴な兄に日常的に殴られており、小学5年の頃からは女の子に性的いたずらをする犯罪の片棒を担がされていました。
悟と雛月は「演技・フリ」をすることで、クラスに適応しようとしていました。
悟と雛月は集団に適応するのに苦労していましたが、八代の場合は、精神力も頭脳も超人レベルだったので、どこに行っても平然と集団に適応していました(表の顔を使い分けていたけど、誰一人八代の本性に気づく者も、理解できる者もいなかった)。
この作品では、この3人の関係が中心になって物語が構成されているのかなと思いました。
前半の「雛月編」は、悟が過去に戻って、殺されて忘れ去られていた「雛月加代」を救済すること(事件を防ぐこと)が目的になっていました。
後半の「八代編」は、過去の歴史を変えることに成功した悟が現在に戻ってきて、全ての元凶である「八代学」と対決し、決着をつけることが目的になっていました。
8巻を読んで、作品の全体像がクリアに見えるようになったのですが、この作品は、
「過去のトラウマと向き合って、それを克服し、未来へ踏み出していく物語」だったのかなと思いました。
過去に戻って雛月を救済することが、自分を救済することになっているので、「雛月加代」の存在は、悟にとって「過去の自分自身」でもあったのだろうなと思いますね。 (誕生日が同じことも「悟=雛月」の暗示でしょうかね)。
悟が「未来」に踏み出すためには、過去の自分を救済することと、すべての元凶である八代と対決しそれを乗り越える必要があったということなのかな、と思いました。
また、悟の場合、この八代の存在を乗り越えることは、「父親の存在を乗り越える」ことのメタファーにもなっているみたいですね。 (悟が、八代に対して父親像を重ねて見ているシーンが何度かある)。
悟の実の父親は離婚して車で去っていくシーンがあるだけで、ほとんど説明もないのですが、
幼い悟を置いて出て行ってそれっきりだったようなので、良い父親とは言えないですね。(それが原因で、悟はコミュ障気味になったようですし)。
一度目は実の父親によって、二度目は父親の姿を重ねて見ていた担任の八代によって、悟は心にポッカリ穴が空いてしまったようです。
雛月は悟より一足先に、母親(毒母)の存在を乗り越え、成長し大人になり自分が「母親」になるという、「未来」にたどり着くことができました。
同じように悟も、「未来」に踏み出すために「父親(=八代)」を乗り越える必要があったということですね。
(「父親」、「母親」、「家族」もこの作品の重要なテーマになっているみたいですね)。
雛月が言っていた「ウソツキ」「ニセモノ」とはなんなのか? ということですが、要するに他人と接するとき「演技・フリ」をしている人のことですね。
他人に対する興味が薄く、コミュ障だった悟ですが、友達は欲しかったので、ユウキさんのアドバイスに従って他人の良いところを真似して友達グループに適応しようとしていました。
雛月の場合は、母親による虐待の辛さとか、一人ぼっちの孤独感などの負の感情を自分が我慢することで(何も感じていないフリ)をすることで、家庭・学校の居場所のない環境に耐えていました。
どちらも自分を偽っているのですが、それは自分の置かれた環境に適応するための努力であり、「いつか本当になる気がする」と信じて、がんばって生きていたわけですね。
生きていくのに不器用で、苦労している悟と雛月に対して、八代はどうだったのか?
元々、「生」に対して執着が薄い(自分に対しても他者に対しても)人間だったとのこと。
(そういう性格が生まれつきのものなのか、環境によるものなのか、その両方なのかよく分かりませんけど)。
頭脳明晰で、策謀・人心掌握術にたけていたため、本性は隠して優等生としての表の顔(演技・フリ)で生きていました。
不器用な悟と雛月に比べて、能力があまりにも高かったため、誰一人八代の本性に気づく者はいなかったようです。
悟も車ごと池に沈められる寸前まで八代を信じ切っていましたし、雛月も八代の本性には気が付かなかったようです。
小学生離れしたケンヤも八代に対しては不信感を持ったこともないようですし、事件が起きた後も、観察力が鋭い悟母も八代が怪しいとは思わなかったようです。
八代は「この世に自分を理解できるものは一人も存在しない」と思っていた人間のようですね。
(まあサイコパスなんでしょうけど)。
八代が悟に執着するようになった理由は、悟が「自分の思考を先読みする」=「自分のことを唯一理解できる人間」だったからのようですね。
自分の計画を先回りしてことごとくつぶしていった悟に対して、戦慄と敬意を感じるようになったようですね。
最終決着の場面で悟は、
「先生には15分のアドバンテージ・・・僕は18年のアドバンテージでやっと五分だよ」と言っていましたが、
それぐらい八代は他者とかけ離れた、飛び抜けた存在・・・、ある意味一人ぼっちの孤独な人間だった、・・・んでしょうかね。
正直自分は八代に感情移入するのが無理なんですけどね。
八代の子供時代の回想とか、人生哲学とか、部分的には分かる・共感できるところもありますが、結局はサイコパスの快楽殺人者ですからね・・・。(悟や雛月にはすんなり感情移入するのですが・・・)
でも、悟に執着したり、悟の「リバイバル」を世界でただ一人理解できる人間だったり、8巻の決着シーンで、多少人間らしい部分が見えたので、その点は良かったのかな、と思いました。
この作品では、八代を「完全な悪」「モンスター」として、単に倒せばいい対象としては描いていないんですね。
悟は「心に空いた穴を埋める」という八代の言葉を、最終決着に至っても、まだ大切な言葉として受け止めていますしね(全て八代が元凶ではないかと思うのですが・・・)。
八代の存在は、こうなっていたかもしれない「もう一人の自分」(似た者同士)でもあるんでしょうか。
悟が事件を解決し、八代を乗り越えることができなければ、心の穴を埋めることができないまま、うだつの上がらない虚ろな人生を送り続けることになったのでしょう。
八代のように、心の穴を埋めることができず「代償行為」を求めてさまよい続ける人生になっていたのかもしれない。
誰ば悪いかと言えば、全て八代が悪いと思うのですが、
悟と八代は心に穴が空いている人間という点では、似た者同士だった・・・のでしょうかね。
最後に、八代の頭上から「蜘蛛の糸」が消えていましたが、これはどういうことだったんでしょうか。
悟と理解しあえたことで心の穴がふさがった・・・? わけでもないでしょうね。
警察に捕まって、あとは裁判を受けて死刑を待つだけですから、これで犯罪も行えなくなるし、蜘蛛の糸を昇る必要がなくなったから・・・? なのでしょうか。
それとも、もう他者を蹴落とす必要がなくなったので、「カンダタ」ではなくなった、ということなんでしょうか。
それが八代にとっての救済? だったのか、
それとも八代という人間の終わり(アイデンティティーの喪失)だったのか・・・
(正直よく分かりませんでした)。
雛月加代とは何だったのか?
二人のヒロイン「雛月加代」と「愛梨」ですが、物語的位置づけとしては、
雛月=「過去」、愛梨=「未来」をそれぞれ象徴しているのかな、と思いました。
悟が「リバイバル」によって過去に戻り、雛月を救済することは、それが自分自身をも救済することになっているので、
悟にとって「悟=雛月(=過去の自分)」という関係になっているのかなと思います。
性格も似た者同士で、誕生日も同じ(3月2日)でしたから、「魂の双子」のような関係? なのかな、と思いますね。
「双子」というほど似ているわけではないと思いますが、なんとなく兄妹に近い感じがします。
性格や誕生日が同じという以外にも、作中で二人の人生が重なるようなシーンが何度かありました。
例えば4巻で、雛月が母親から保護され車で去っていく別れのシーンがありますが、この時の、
「未来は常に白紙だ。自分の意志だけがそこに足跡を刻める」というモノローグは、8巻のラストシーンでもほぼそのままリフレインされていますね。
雛月と悟が、それぞれ人生の新しい一歩を踏み出したその時、同じモノローグが重なるあたり、悟と雛月のつながりの深さが感じられます。
そして、悟より一足先に自分の人生に踏み込んで行った雛月は、ヒロミと結婚し「母親」になって悟と再会しました。
その時、悟は「おめでとう、加代」と本当にうれしそうに涙を溢れさせて喜んでいました。
母親に虐待されて一人ぼっちだった雛月が、母親の存在を乗り越えて、自分自身が「母親」になることができた「未来」は、この作品にとって非常に重要な結末だったと思います。
何度も殺されて、母親に虐待されてかわいそうでしたので、加代ちゃんが幸せになれて本当によかったですよ・・・(涙)。
悟と雛月加代の関係は、事件当時の子供の頃に限って言えば、「悟=雛月」(救わなければならなかった、もう一人の自分)・・・だったのかな、と自分は思いました。
愛梨とは何だったのか?
過去編のヒロインの雛月も重要な存在ですが、それと同じかある意味それ以上に重要なのが愛梨の存在ですね。
8巻ラストの愛梨との再会シーンも、余韻の残る素晴らしい名場面でした。
過去を乗り越え、また新しい一歩を踏み出した悟でしたが、愛梨との再会を果たし、
これから始まる「未来」を予感させるような、余韻の残る素晴らしいラストシーンでした。
雛月が母親になることができたわけですから、同じように悟もこれからの「未来」で、「父親」になれるのかな・・・? とか色々想像が膨らむいい終わり方でした。
(雛月が一足先に「母親」になっていることは、やがて悟も「父親」になることの先触れ・暗示のように思いました)。
ところで、この作品には二人のヒロインがいるわけですけど、どちらが人気があるんですかね?
まあキャラの人気的には、クーデレかわいい雛月の方が人気があるみたいですね。
マッチ売りの少女的な「かわいそうな女の子」ですし、「バカなの?」とか、キャラが立っていましたからね(圧倒的な存在感)。
愛梨もかわいいですが、出番が少なめで、やや不利な立場だったんでしょうかね。
愛梨がなかなか出てこないので、正ヒロインの割に影が薄いな・・・と思っていましたけど、ラストシーンでそんな不満も帳消しになりました。
出番が少なかったからこそ、最後の再会シーンが余韻の残る名シーンになったんだろうな、と思いました。
それに内向タイプの悟には、明るくて活動的な愛梨の方が組み合わせとしては良いんでしょうね。
(どちらも内向タイプのカップルって地味ですからね)。
人気からすると、悟と雛月をくっつけた方が読者受けはいいのかもしれませんが、8巻の締めがあまりにも見事だったので、やはり正ヒロインは愛梨で間違いなかったと納得しました。
素晴らしい作品でした
いろいろだらだら書いてきましたが、批判は特になくて、非常に素晴らしい作品で本当に感動しました。
タイムリープもの、サスペンスとしてもさほど突っ込み所(矛盾など)もなかったように思います(探せばあるのかもしれませんが)。
不満と言えば事件を解決して現代に戻ってきてから雛月加代が本筋に絡んでこなくなって出番が減ったことぐらいですかね。八代との対決までが長すぎるような気もしていたのですが、8巻のラストの締めとか胸に迫るものがあり、やはり面白い・素晴らしい作品だと、納得しました。
タイムリープもの、サスペンス(=エンタメ)として面白いというのは、言うまでもないのですが、キャラクターがそれぞれ魅力的だったのも良かったです。謎や伏線がちりばめられていて、説明が抑えられているので、これはどういうことなんだろう? と、謎解き(勝手な解釈)をする楽しさがありました。
エンタメとして面白いだけでなく、受け手によって色々な解釈が成り立つ・読むたびに新しい発見がある奥深い作品だと思います。
エンタメの面白さと内容的な深さが両立していて、すごい作品だと感服しました。
自分はアニメから入ったクチなので、にわかもいい所なのですが、こうして短期間で物語の結末まで見届けることができて、結果的には非常にラッキーだったと思いました。
まだ外伝が続くようなので、そちらも楽しみですね。
何はともあれ素晴らしい作品でした。ありがとうございました。
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